2023年3月11日土曜日

【東日本大震災から12年がたち】

被害に合われた方々、ご家族や知人を亡くされた方々には、謹んでお悔やみ申し上げます。

あの時のことを忘れないために。
2011年3月11日は、15時まで町田の採用アウトソーシングの会社での勤務予定でした。

嫌な揺れが続き大きくなったところで、書籍ラックをつかみながら他のパートの方々に声をかけていたと思います。
幸い倒れるものは何もなかったのですが、窓越しに見えた電柱の曲がりから恐怖を感じていました。
後でわかった事ですが、線路にも近く停電もしないビルだったようで、ネットで少し状況がわかってきました。

余震もある事から、従業員を隣の駐車場へ避難させることを社員に進言した事は覚えています。
親と連絡がとれ、兄貴家族も避難してくるというので定時で上がれるように社員に託しました。
パートさん達も、お子さんの学校に連絡するなど幸い可能でした。
客先や上長対応などできるところは済まして、あとは託してでたのですが、町田駅に向かうSEIYUの前の階段が溢れかえっていたので諦めようとしたところ橋本行きのバスを見かけて走りました。

遅々として進まなく、満員の車内にちょっと苛立った雰囲気がひろがっていました。
Twitterの投稿やワンセグの画像を見て血の気が引きました。
大洗の濁流。

ただの地震ではないのは察しましたが、車内のどれ程の人が認識していたでしょうか。

渋滞と満員に嫌気をさす空気だけ。
ようやく車の流れも良くなった頃には、ニュースに流れていた多摩境のコストコ方面から避難してくる人々の姿が見えました。

橋本まで辿り着いたのは1時間40分位だったと思います。普通なら電車で14分。
車外にに降りようとすると、目の前の乳母車のママさんが苦労をしているのに押し合う人混み。運び出すのに手を貸すも、後ろのオジサンからのプレッシャーが。。。
とりあえず、身体を止めて親子を降ろしましたが、この状況下での人の対応にショックでした。

橋本駅は封鎖され、避難場所に誘導掲示が出されていました。
薄暗くなり始めていたので、ロータリー付近に知人がいないかと確認をすると、ATMは寒さをしのぐために解放され、イオンのフードコートの椅子も外に出されていました。
やっぱりとんでもない事態になっていると感じ、サロンに戻りました。

薄暗い部屋の中、落ちたり散乱しているものは、さほどなかったため、食料品だけリュックに詰めて、急いで家に帰る事にしました。
高校時代に毎日のように朝サンドイッチを買っていた、たかすさんが懐中電灯でお弁当を販売していました。
こんな時にスゴイなと、オバちゃんありがとと思いながら自転車を飛ばした記憶があります。

いや、帰り道の自転車は怖くて飛ばせませんでした。
16号は手旗信号の警官がいましたが、他の交差点は停電のまま、入り組んで入ってくる車が。
自転車は渡れませんよ。
いつもは10数分で着く家路がどれ程長かったことか。
家に着いても停電。
ガスコンロだったため、お湯や食料に不便はなかったですが、朝方の4時過ぎになってやっと電気の復旧を確認できました。
そこから流れてくるテレビ映像は想像を超えるものでした。

あの頃のことを町田の経営者に話すと、
「俺は会議でいなかったから」
と笑って返されました。
社員の離職率が高いのも納得です。

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